思い出の記

とっちゃんが生まれたのは川崎市の大島町である。
当然生まれたときの事は知るよしもないが、誕生日は昭和12年 8月26日と戸籍に載っているいるから間違いないと思う。
ただあまりにも遠い昔の話ゆえ、思い違いや認識不足のための誤記もあると思う、その時はご遠慮なく掲示板に訂正をお願いできれば幸いです。


「就学前のこと」
覚えているのは5歳くらいからの事だと思うが、当時我が家はそれなりの広さの敷地にあった3軒の借家の1軒であった。
他の2軒は静岡出身のフカサワさんと千葉が実家のテラダさんの家であった、
3軒の借家で使う水は道路に面した我が家の近くにあった井戸から手押し式のポンプでくみ上げていた。
家はさほど大きいものではなく、8畳の座敷と6畳の居間、それにお風呂場と台所程度だったように記憶している。
我が家の前にはどぶ川がある4m程の道路を挟んで、大きな屋敷のある同級生のフミオ君の家で花や野菜をいっぱい作っていたことを覚えている。
私の家庭は父母と姉、妹2人と男の子は私一人である。
父は毎日自転車で通勤していて、会社は埠頭の直ぐ傍にあった。
そこは広い敷地の中に荷揚げに使うのか大きなクレーンなどがあった。
父の勤務先は三井物産系の埠頭会社であることを後で知った。

「潮干狩り」
隣のフカサワさんの叔父さんは私を可愛がってくれ、休みにはよく遊んでくれた。
初夏の頃だったと思うが、叔父さんは自転車の後ろに私を乗せ、それほど遠くない海岸に潮干狩りによく連れて行ってくれた。
その海岸には簾のような物がたくさん並んで、海苔が一面に干してあった。
海苔干し場の横を通り抜け、履物の下駄の鼻緒をズボンのバンドに通してから海に入るのだ。
何でそんな事をするかというと、履いていったものが潮干狩りが終わって帰ろうとするとなくなっていることがあるからなのだ。
当時もドロボウはいたのだろう。
潮の引いた海を熊手で掘るとアサリ、蛤、が砂の中から出てくる。
今でも名前が分らない貝で細長い数cmのモノもいた。
帰りはまた叔父さんの自転車の荷台に乗せてもらって、貝のイッパイ入った網を抱えながら帰ってくるのである。
今はもう川崎の海岸には海苔棚も潮干狩りの光景も見られないだろう。

「戦争ごっこ」
私の隣家テラダさんの家には3年生くらいのケンちゃんというお兄ちゃんがいた。
私たちの住む借家の隣は少し小高くなった森で、そこに小道が通っていて森を抜けると大家さんの家があった。
大家さんの家のことはよく覚えていないが、ケンちゃん家と大家さんは親戚筋に当たると母から聞いたことがある。
ケンちゃんは時折私たち小さな子供を集めて遊んでくれた。
私やフミオ君たちはケンちゃんの後について森の中に入って遊ぶのである。
森の中には棒切れが落ちていて、それを拾ってそれぞれ腰に差し兵隊ごっこが始まる。
勿論大将はケンちゃん、私たちは兵隊である。
「突撃〜」「伏せろ〜」と大将の声がかかると、皆それに従って走ったり、地べたに這い蹲るのである。
当時川崎の町でも海軍の将校さんをよく見かけた。
その姿は真っ白な制服に腰には短剣、肩には金のモールを下げ、見た目にも凛々しくカッコよい姿だった。
私は大きくなったら海軍の将校さんになるんだと子供心に誓ったものだ。
父の親族の男たちは長兄を除いて総て海軍の軍人であったことも影響していたのかもしれない。
私のこんな夢も昭和20年 8月15日を境に露と消え去っって仕舞った。

「焼き鳥や」
私の家から少し行ったところに駅前からの大通りがあった。
父は時折会社から帰ってくると私を連れて夜店に連れ出してくれた。
川崎という所は縁日の露店のような店があって、そこで玩具などを買ってくれた。
その後、少し歩いた所に何軒かの移動式なのか車の付いた屋台の焼き鳥屋がある。
父はそこに私を同伴したまま暖簾をくぐり、私には白もつの焼き鳥を1本与え
自分は焼き鳥とお酒を店の小母さんに頼むのである。
小母さんは私に向かって「賢いね〜」とか「可愛い子だ」などとお世辞を言いながら
パタパタと団扇を扇ぎながら焼き鳥を焼き、お酒の燗を付けながら客たちと談笑している。
父は先客や後からの客と楽しそうに話しながらコップの酒をうまそうに飲むのである。
私の白モツは何時になっても口の中で噛み砕けない、それはそのはずだ、今でも白モツは他の焼き鳥の中でも噛み切るのに時間がかかるのだから。
父は外が真っ暗になってもまだ隣の客や小母さんと楽しそうに話しながら呑んでいる。
そんな平和な時間を過ごした後、小一時間もそこで過ごし私を連れ帰宅するのである。
私はその頃になってもあの白モツが口に残っていた。
焼き鳥の匂いは子供の嗅覚にも香ばしく、父がそこに行くのも当たり前だったのだろう。
おかげで私はその時脳裏に残ったあの香ばしい匂いが今でも忘れることがないから、屋台の焼き鳥屋に行くようになったのだろう。

「馬糞」
食べ物の後で恐縮だがこんな光景にもよく出会った。
川崎駅から埠頭に向かって広い道路があり、そこには当時でもトラックや乗り合いバスが走っていたが、さすがに個人の乗用車はあまり見かけた記憶はない。
その大通りでよく見かけたのはタイヤをつけたおおきな荷馬車で、駅からの荷物を工場などに運んでいたようだ。
小父さんに手綱を曳かれた馬は大汗を掻きながら荷馬車を牽くのである。
馬も生き物だたら食べたものは消化した後は自然の摂理で排泄しなければならない。
そんな馬糞が大通りのアチコチに見られ、それを当たり前の光景として眺めていた。
私の記憶にある頃だから、たぶん昭和18、9年の頃だったろうから、日本の兵隊さんたちは戦地で容易ならぬ状態であっただろうが、まだ川崎の駅前から延びる大通りにもゆったりした平和な光景が子供の私には映った。
だけど大通りに落ちていたあの馬糞は誰が片付けたのだろう?
農家の人が拾い集めて堆肥にでもしたのだろうか?
それとも乾燥して粉々になって大気の中に飛び散ったのだろうか?

「お銚子小僧」
前にも書いたが父は自転車で通勤していたから、会社から戻ると直ぐ分った。
自転車のブレーキのキーっという音がして、ガラガラっと玄関の開く音がすると父の帰宅なのだ。
時としてその音もなくガラガラっと玄関が開く音とともに「今帰ったぞ、今日は会社の皆が一緒だ」と玄関先から父の声とともに「お邪魔しまーす」数人の小父さんたちが家に上がってくる。
こうなると我が家は戦争になる。
「いらっしゃい」と母の挨拶が終わると、座敷にお膳が出され一升瓶の飲みかけの冷酒と少しばかりの残り物のつまみが出される。
小父さんたちや父はお膳の周りで飲み始めるのである。
母と姉はここから戦闘開始である。
二人は大慌てで大通りの酒屋や食糧品店に出動することになる。
買い物から帰った二人は台所で酒の燗をつけたり、酒の肴作りにかかることになり、銚子の燗酒運びは私の仕事になる。
お盆に載せこぼさないように座敷のお膳まで運ぶことになる。
小父さんたちはそれを互いに酌み交わしながら楽しそうに談笑している。
少し時間がたつと赤い顔になった小父さんたちのピッチが遅くなってくる。
ここで私の出番になる。
元来がお調子者の私だったのだろう「小父さん、モット呑んでください」といいながら銚子を持って回るのである。
小父さんたちは「おお〜 とっちゃんはよい子だ}なんていいながら旨そうに明けた杯を私に「ハイ、返ぱーい」なんていいながら私に飲ませてくれるのである。
これが甘くて美味しいので、小父さんたちからの返杯を受けるうちに、足がふらつき私が酔ってくると面白がって「とっちゃんはお父さんの跡継ぎが出来るぞ〜」なんていいながら夜が更けていくのだ。
小さい妹たちは夕食を何時摂ったのだろう。
こんな時から酒の中に身を置いた私が酒が弱かろうはずがないのである。
あの頃我が家で酒盛りをした小父さんたちは、その後の川崎大空襲でどうなったのだろう?

「紙芝居」
私の家から少し行った所に辻があって、右に行くと駅からの大通り、左は国民学校に通じていた。
カチカチと甲高い拍子木の音を響かせ紙芝居やさんがやって来ると子供たちは5銭か10銭の硬貨を握って家から辻に集まるのである。
紙芝居やの小父さんは子供たちに水飴を割り箸みたいな棒の先に付け売るのである。
子供たちはその割り箸のような2本の棒を両手でクルクルまわしながら水飴が白くなるのを競っていた。
私はまだ小さくてなかなか水飴が白くならなかったが、少しおおきな子達は白くなるのが早く羨ましい思いをした。
ひととおり水飴が行きとおると紙芝居の始まりとなる。
話の内容はよく覚えていないが、片目の丹下左善の絵は覚えている。
小父さんは声に楊抑を付けながら話を進めていく。
子供たちは「おー」とか「すごいなー」なんて云いながら見入るのである。
私が物心付いた頃の話だから既に大東亜戦争の頃だったろうが、川崎の街角にはこんな平和な光景があった。
紙芝居を見た子供たちの中には集団疎開で田舎に行った子や私のように 兄弟で父の田舎に疎開した子も居たろう。
疎開しないで川崎に残った子達はその後の空襲でどうなったんだろう。

「ポンポン蒸気」
夏になると思い出すのはポンポン蒸気に乗って海水浴に行ったことだ。
船に乗ったのはどのあたりからか記憶はないが、行った先は確か扇島だった様に記憶している。
あまり大きくない蒸気船でそこには大人や子供たちがイッパイ乗っていた。
私は母親に連れられ混み合った船に乗り海水浴場まで行くのだ。
父や隣のおじさんに連れて行ってもらったことも何度かあると思う。
私はまだ小さかったから波打ち際でバシャバシャしていたのだろうが海岸では大勢の人たちが海水浴をしていた。
数時間浜で過ごし、またポンポン蒸気で帰ってくるのである。
私が学校に入る前のことだから当然戦時中のことだったが、夏の暑さから逃れるために庶民はこんな所で涼を取っていたんだろう。
この前、扇島をネットの地図で調べたら工場などがイッパイ建っている
様子で、東京湾の陸に近い島だから汚染がひどく今は海水浴など出来ないだろう。


続く(工事中)